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赤ひげ功労賞を受賞して

大竹整形外科・さいクリニック 院長 大竹進

 2021年の第9回 日本医師会 赤ひげ功労賞を受賞しました。名誉ある賞を頂戴し大変光栄に思います。ご推薦の労をお取りいただいた石橋恭之教授はじめ、青森県医師会の皆様、関係者の皆様に深く感謝申し上げます。
 無医村佐井村に整形外科診療所を開設し、月1回の診療を続けていることが評価されたものですが、なぜ、「老人医師が暴走したのか」を記録したいと思います。  佐井村には、江戸時代から三上醫院があり、8代目の三上剛太郎先生は、日露戦争に従軍し「手縫いの赤十字旗」を掲げ日露の負傷兵を救ったことで佐井村名誉村民第1号を贈られました。また、青森県県重宝に指定されている三上家住宅には昭和10年に購入した京都島津製作所のX線装置が展示されています。X線装置が実用化されて数年で、多額の借金をして購入したものです。
 1969年に三上醫院が閉院し、その後は佐井村が村立診療所として引き継ぎましたが、2008年からは病院統廃合による診療所閉院で、青森県内で唯一の無医村・無医地区になりました。高齢者は整形外科受診のために、むつ市や十和田市、青森市まで通院するほか、函館や札幌まで通院していました。
 一方、私が会長をつとめていた青森県保険医協会は、県内自治体と医療や介護について毎年懇談していました。佐井村と懇談した時に「保険医協会は医者の団体なんだから、無医村佐井村に医者を連れてきてください」と要望され、その後もずっと気になっていました。

 2011年3月11日、東日本大震災が起こり、医療も崩壊し、私の人生を大きく変えることになりました。震災直後に青森県医師会から中村渉先生、青森保険医協会から大竹が大槌町に行き、避難所の体育館に診療所を開設し支援しました。
 また、陸前高田病院の支援のため、病院長の石木幹人先生のところをたびたび訪れていました。被災前の陸前高田市は人口2万人、整形外科医療は開業医の武田先生が一人で担当し、県立高田病院には常勤の整形外科医はいませんでした。その武田先生が津波の犠牲になり、陸前高田の整形外科医療は崩壊しました。人口規模と状況は、私が開業している浪岡地区の整形外科医療とほぼ一致していて、市民が困っている状況は痛いほどわかりました。
 8月13日には藤哲弘前大学病院長と陸前高田病院を訪問し、「被災地医療再生プログラム作成」にも取り組みました。全国の整形外科医が仮設診療所に応援に入り、被災者の皆さんの診療にあたりました。  その後も、釜石市、陸前高田市の避難所の支援を続け、もともと医師不足が深刻だった岩手県の被災地の医療を再生させようと、知恵を絞ってきました。
 月に何度も陸前高田に行くたびに、自分が「仮設の整形外科診療所を作ろうか」などと無謀にも考えていましたが、陸前高田病院が再建され、大船渡病院との連携も充実したため、私の計画は不要になりました。

 被災地の医療支援で蓄積されたアイディアは、青森県の無医村解消にも役立つと、佐井村の無医村解消プロジェクトが始まりました。
 2013年に佐井村で健康教室を開き、村民の方々から「困っている生の声」を聴きました。そして、2015年には佐井村と青森県保険医協会が「無医村解消シンポジウムin 佐井村~全国から佐井村に集まって知恵を絞ろう!」を共催し、診療所建設の準備が始まりました。シンポジウムには、陸前高田病院の石木幹人先生の他、全国各地から参加していただきました。奄美大島、大分県、兵庫県の医師をはじめ医療を守る条例を作った延岡市職員、東京からは「根っこの会」会員、医師で衆議院議員の阿部知子先生、長野県の篠原孝議員(スカイプで参加)など、多くの人が無医村解消に向けて知恵を絞りました。
 ポイントは、3.11被災地に全国から医師が支援に駆け付けたように、自治体が呼びかければ全国の医師は協力するのではないか、行政と医療者と住民がそれぞれの責務を果たし、「風の人」が「土の人」になるような魅力的な村づくりをすることで実現できるのではないかなどの意見が紹介されました。
 佐井村と大間、風間浦村は北通り市町村と呼ばれています。北通りは陸の孤島・離島と同じ状況にあるため、佐井村では政府の補助金を使い全ての世帯に光回線が引かれ端末が置かれています。ITを利用した遠隔診療、血圧計と体重計を光回線とつなぎ、一人暮らしの高齢者の安否確認(managed care)も可能なこと、運転免許を返上して移動の手段を失っている高齢者の相乗りシステム(ride share)の可能性など、夢は大きく膨らみます。
 このように、歴史も古く未来への可能性を秘めた佐井村・北通りにすっかり魅せられてしまいました。

 一方、大竹整形開業時の融資返済は2019年で終了予定だったため、2020年以降は税金の支払いが増える可能性がありました。もし、佐井村に診療所を開設するために新たな融資を受けても、税金支払い分を返済に充てるなら、重荷にはなりません。弘前大学医学部卒業後、青森県で整形外科医として育てていただきましたが、残りの人生を地域に恩返しするためにささげたいとの思いで、「さいクリニック」開院を決断しました。
 2018年7月17日、日経新聞は全国版で「診療所が消えた青森の小さな村 患者は渡る津軽海峡 求める「医」1日がかり」の中で、診療所開設計画を報道してくれました。そして、この記事をきっかけに、銀行融資も得ることができました。

  • 日経新聞 2018年7月17日

  • 地図: 青森市浪岡から佐井村へのルート

 最終的に、土地は佐井村が無償で貸し、大竹が診療所を建設し経営する内容の契約書を佐井村と締結し、2019年4月に診療所がスタートしました。毎月第2土曜日と翌日曜日が診療日です。
 土曜日の8:30に青森市浪岡の大竹整形外科をワゴン車に乗り込んで出発し、4時間かけて佐井村に到着します。スタッフは私、薬剤師、放射線技師、看護師2名、運転と事務を担当する職員2名の7名で出張します。
 診療は、土曜日は13:30~17:30までの4時間、翌日曜日は8:30~12:00までの3.5時間です。夜は、スタッフと一緒に佐井村の民宿に宿泊し、海の幸、山の幸をたっぷりいただいています。
 なぜ薬剤師が同行するのかについて説明します。佐井村には調剤薬局がなく、隣の大間町に1軒あるだけで、土日は営業していません。そのため、東北厚生局とも事前に打ち合わせをして、院内処方と院外処方を同時に行うことを許可してもらいました。毎回、佐井村プロジェクトに賛同してくれた薬剤師さんが同行してくれています。
 佐井村の電子カルテはIP-VPN回線で青森市の大竹整形からも操作できます。電話再診でお薬を処方し、MRI検査のオーダーも可能です。また、佐井村の医療事務、医療クラークは青森市から行い、職員は佐井村に出張せずに青森市で勤務しています。今後は、東京から委託会社によるリモート作業を予定しています。遠隔診療が進めば、遠くの専門医が佐井村の患者さんの相談に乗ることも可能です。
 無医村だった佐井村に、さいクリニックを開院して3年が過ぎ、4年目を迎えています。1か月一度の診療で、私たちはまだ「風の人」ですが、「土の人」は温かく迎えてくれます。さいクリニックには、佐井村はもちろん、大間町、風間浦村、むつ市からも受診しています。最近は、2日間で100人くらいの患者さんを診察します。
 診断されていない「変形性股関節症」「脊柱靭帯骨化症」「肘部管症候群、手根管症候群」の方も複数いました。
 変形性関節症の診断がついて人工関節置換術などを希望する患者さんは、青森県内はもちろん希望する病院へ紹介します。腰痛で通院していた30代の男性は、急に腰痛が増強し下肢筋力低下も出現したため、大竹整形に電話で相談してきました。手術が可能な病院を紹介し脱出した椎間板ヘルニアを確認し手術によりその後は順調に回復しました。
 双極障がいで骨粗鬆症の治療を受けている人からも、繰り返しの相談がありますが、いつでも困ったら電話してもらえるように、私の携帯番号も渡しています。気軽に相談できる「かかりつけ医」の存在は、無医村の村民にとっては安心感につながっています。
 偶然にも、さいクリニックに向かう途中で交通事故現場に遭遇し、救急車が来る前に看護師と救急対応したこともありました。大腿骨・下腿骨開放骨折で多量出血していました。救急車が到着し、ターニケットで止血し大間病院に搬送し、その後ドクターヘリでむつ病院に搬送され救命されました。

 元気な高齢者が多いことも特徴です。患者さん90人中、90歳以上が11人の時もありました。腰痛でタコツボを引き上げられないという高齢の現役漁師さん、足腰は悪いが「口だけは達者」という女性たちも多く受診します。いつも気が合う仲間の家に集まって「お茶っこ飲み会」では笑い声が絶えないそうです。
 クリニックの待合室も「お茶っこ飲み会」状態で、笑顔があり、笑い声でもりあがっています。久しぶりに会った94歳の男性と女性は同級生で、さいクリニックで毎月同窓会になっています。  連れてくる家族や隣近所の人たちも、高齢者を大切にしていることがストレートに伝わってきます。一人暮らしの高齢者が多くいますが、孤立していません。隣近所が助け合って暮らしています。「どうしてですか?」と聞くと「明日は我が身だから」と答えが返ってきました。人口減少の田舎だからこそ、支え合いの仕組みが育つのだと感じました。
 牛滝小・中学校は、中学生が卒業して生徒がいなくなったため2021年から休校になっていましたが、その後、地域で子供が生まれ、牛滝小・中学校も2026年に再開する予定でした。さらに、来年、牛滝地区に転居する子供もいて、予定より3年早く2023年に再開が決まりました。学校の統廃合が続く中で、数人の子どものために村は学校を再開するというニュースに鳥肌が立つほど感動しています。
 佐井村は、小さくても輝くむらづくりに全力投球しています。そこに長年住んでいる「土の人」と、途中から参加した「風の人」が、コラボすることで新しい展開が可能ではないかと考えています。
 斎藤幸平さんは、「人新世の資本論」で気候変動問題を取り上げながら「脱成長」について書いています。「成長し続ける社会をめざすのではなく、無意味な成長は止める、人の健康だけではなく動物や環境の健康を考えるプラネタリーヘルスへ転換する、意味のない仕事(ブルシットジョブ)を止めてエッセンシャルワークを重視する、公共サービスを拡充する、分かち合うことで環境への負荷を減らす暮らしをめざす、シェアして、自分たちで自治・管理する実践が今こそ求められている」と主張しています。人口減少におびえず支え合って暮らす佐井村の人、そして北通りの人たちがそれを実現することも十分可能です。

 佐井村は、江戸幕府が蝦夷地渡航の港と定めてから、「北前船」の往来があり、大阪・京都など関西の文化が根付いています。2019年8月には「やのねもり八幡宮」のお祭りにも参加しました。村を離れている若者も多く帰省し、昔の活気が戻っていました。
診療中に、村内放送から「今日はひじき狩りの日です」と聞こえてきて、少し驚きました。一方、家庭菜園に取り組んでいる人もいますが、猿の被害が問題だそうです。サルが大好きな野菜の栽培は、ネットを張ってその中で人間が作業し、動物園とは逆の風景になっています。

 今後は、持続可能な無医村解消システム構築が課題です。全国の医師に佐井村の医療に関心を持ってもらおうと、「臨床整形外科学会」「全国保険医団体連合会主催医療研究フォーラム」で活動を紹介してきました。開院後は、全国の医師に佐井村に集まってもらい、セカンドステージを企画していましたが、コロナ感染拡大で無医村解消プロジェクトは足踏みしています。
 私の体力と気力がいつまで続くかも問題ですが、無謀な夢のバトンを引きついでくれる人が必ず現れることを信じて、まだ数年間は頑張る予定です。鯛と平目、ウニにアワビ、竜宮城のような佐井村、江戸時代からの京都文化の中心地佐井村に集まって知恵を絞ってみませんか?

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